網野銚子山古墳

網野銚子山古墳(国指定 史跡)は、墳丘長201メートル・後円部径109.5~116.5メートル・同高17.3メートル・前方部幅83メートルの日本海側最大の前方後円墳。
古墳の墳丘は三段築成で、それぞれの斜面には葺石を配置し、各段のテラス上には丹後地方特有の丹後型円筒埴輪がめぐり、雄大で整美な姿を持っている。

墳丘の南側には、幅17メートル~25メートルの周溝がめぐっていたことが発掘調査からわかっている。また、前後には、小銚子古墳寛平法皇陵古墳(いずれも国指定 史跡)の2基の古墳があり、現在は小銚子古墳が陪塚と考えられている。
古墳の造られた時期は4世紀後半と推定され、古墳時代を前期・中期・後期・終末期に分けると、前期古墳の時期にあたる。丹後地方では、弥生時代後期から古墳時代前半に大きな勢力をもった政治勢力があった可能性(いわゆる「丹後王国」)が指摘されており、埋葬施設は未調査であるが、この古墳に葬られている人物は、少なくとも大和政権と関係を持ち、大陸との交易等にも携わったこの地方の有力者であると考えられている。

墳丘部から出土した円筒埴輪は、いずれも頂部が内湾して丸く立ち上がり中央に円形の穴を開ける「丹後型円筒埴輪」と呼ばれ、1段目テラスに樹立された埴輪は約25センチ間隔でならんでいた。墳丘上には約2,000本の埴輪が樹立していたと推定されている。
丹後型円筒埴輪の中には、龍のような図柄や弓矢を線刻したものも見つかっている。

ストーリー
<日本海の玄関口での交流・交易>
指定区分
国指定史跡
住所
網野町網野