震災の記憶を継承する 北丹後地震

2024.03.26

引用:京丹後市HP

昭和2年(1927)3月7日、夕食の支度でどの家庭も忙しい18時27分にその大地震は起こった。丹後半島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震で、北丹後地震(丹後震災)と呼ばれるものである。
大宮町—峰山町—網野町の間を走る郷村断層、岩滝—野田川町を走る山田断層の二筋の断層に沿った町村では「『機関銃を発射する音位の速さ』で上下左右に揺れ、家々は倒壊した」(出:京丹後市史)と記録に残されている。とにかくあっという間に凄まじい衝撃が押し寄せ、上下左右に身体は揺さぶられて家屋も倒壊したということだろう。多くの人が逃げ遅れて家屋の下敷きになり、震災による死者は2,925人にのぼる。
特に被害の大きかった峰山町では、地震による倒壊や直後に起きた火災により、ほとんどすべての建物が被害を受け、多くの死者を出した。多くは生きたまま焼死したと考えられる。夕飯の支度時間に起きた地震のため、発生直後に火災が起こり、あっという間に町を包み込んだ。逃げるひまもないままに炎が人々を飲み込んでいったことになる。
なんという惨状。残されている被災状況の写真を見ると、言葉を失ってしまう。

3月16日の峰山と本町通 京都府蔵(ご提供画像)

追い討ちをかけるように、地震発生の翌日は夕方から氷のような冷たい雨が降り出し、暴風警報が出されている。焼け出され、着の身着のままで雪の上や藁の上に畳などを敷き、戸板で風を防いで救助を待っている人々に容赦なく降る冷たい雨とは、なんと惨いことか。
被災した人々は生きた心地がしなかったのではないだろうか。
地震発生から2日後の9日には、陸軍、海軍の救護班合わせて400名弱が救護活動に従事し、これ以降、日本赤十字の京都支部、近隣府県の支部、京都府および郡医師会など多くの組織、団体が救護班を編成し、被災地に送り込んだ。
こうした救護活動が進む一方で、全国から集まった救援物資の輸送などは、陸上、海上のルートを使って行われた。しかし、3月という春まだ遠い季節の丹後半島では11日の朝に雪が降ったことで道路はぬかるみ、思うように配給が進まない事態に直面する。
それも時間と各所の協力のもと次第に解消され、12日あたりから、被災した人々のためのバラック建設が本格化。地震発生から4日後のことだった。
その後、救援活動は進み、4月3日までに4,144戸のバラックが完成し、本格的な暮らしの再建へと向かっていくのである。


凄まじい地震の爪痕

郷村断層画像 京丹後市様蔵(ご提供画像)

これほどまでに甚大な被害を及ぼした北丹後地震によって、地域にどのようなことが起きていたのか。ここで、今に残る北丹後地震の痕跡をみてみることにしよう。
地震によって網野から峰山を通り、大宮に向かって延長18㎞の「郷村断層」と、与謝野町四辻から岩滝に向かう延長7.5㎞の「山田断層」が生じている。
その郷村断層の中で、郷小学校前に現在保存されている小池地区に立つと唖然としてしまう。大地は60㎝隆起し、水平方向に260㎝ずるっとずれてしまったことがよくわかる。
写真で見るよりもはるかにインパクトのある光景だ。今では普通に人々が暮らす生活道路として利用されているため、もしかすると地元の人は気に止める人も少ないかもしれない。しかし、現地を見学すると、明らかに道が横にずれていることが今でもわかり、地震の凄まじさを実感することができる。
同様に、樋口地区、生野内地区に保存されている断層を見に行くことにした。
樋口地区では60㎝隆起し、水平方向に275㎝ずれていて、石柱を頼りにずれを確認することができる。
 


生野内地区の断層は62㎝隆起し、水平方向に185㎝のずれが起こっている。ここは他の場所に比べて山の中にあり、少し行きにくい場所にあるのだが、それでも幅117㎝、深さ242㎝の大地の裂け目を見るために訪れる人は多く、北丹後地震の記憶と共に地質学的にも貴重な場所として現在も知られている。
 


これらの地震の痕跡が守られたのは、当時の時代背景もあった。
大正12年(1923)、関東大震災が発生し首都圏は未曾有の被害に見舞われた。これを契機として大正14年(1925)に東京大学地震研究所が設立されたが、その同じ年に北但馬地震が発生、兵庫県北部を中心に大きな被害を受け、地震と災害の研究の必要性が社会的に痛感された。

地震や断層についての関心が非常に高まっていた情勢の中、北丹後地震が発生したため、多くの
機関の研究者がただちに被災地を訪れ様々な調査を行った。

例えば、京都帝国大学理学部地質学教室の松村基範、中村新太郎両教授は、地震発生2日後の9日にいちはやく現地を調査し、13日には調査を完了させ、その結果を新聞で報告している。

東京帝国大学、京都帝国大学、東北帝国大学をはじめとするの多くの研究者により、余震分布・地殻変動・断層調査など近代的な詳しい調査・研究が行なわれた。
今日、よく耳にする「活断層」という言葉も郷村断層に関する論文の中で日本で初めて用いられたものだ。

こうした研究者たちの最先端の調査報告を受け、京都府は断層の保存に関して、東京帝大、京都帝大、東北帝大の専門家らの意見を求めた。
その結果、地震だけでなく地質学の学術資料としても非常に貴重であり保存が望ましいとの答申を受け、地震発生から2年後の昭和4年(1929)2月に「郷村断層」は国の天然記念物に指定されることとなった。

凄まじい地震の爪痕は、我が国の地震研究や地震災害の対策の礎となり、その記憶に後世に伝えるため、保存されることになったのだ。


後世に伝えるシンボルとして


生活再建へ向けて人々の救護活動と並行して行われたのが、義捐金募集である。行政ルートを通じて各方面の代表者269名が募集員に任命され、精力的に活動した。その結果、全国から寄せられた義捐金は予想を上回る約225万円が集まり、被災地の町村を通じて被災者に配分された。その後も国内のみならず、海外からも義捐金は届けられ、1年後には約440万円にもなった。
その義捐金の残金を使用した震災記念施設の建設構想が、震災1周年の時に当時の京都府知事であった大海原重義氏の談話により発表されたのである。
設計に携わったのは京都府技師一井九平である。一井は私立工手学校(現在の工学院大学)造家学科の第一期生で、日本近代建築の薫陶を大いに受けたと考えられる人物である。彼は、学校卒業後、東京府土木課に所属、その後は岡山、福岡などで公共事業に携わり、明治34年(1901)に京都府に所属する。キャリア晩年の仕事が丹後震災記念館だった。
 


丹後震災記念館は鉄筋コンクリート造りを採用し、地上2階、地下1階。窓の開口部を極力小さくして耐震性能を考慮するなど、震災直後の象徴的な建物として細部にも配慮をしたものになっている。建物正面に作られたポーチには可愛らしいアーチが施され、2階部分の窓のアーチと相まって、シンプルな作りながら温かみのある洋風建築である。とてもモダンで今でも十分素敵な雰囲気を纏っている。近代建築好きにとってはたまらない魅力があり、建築物としての評価も高く、建物そのものも、貴重な文化財と言える。
現在は内部公開されていないが、京都市の画家伊藤快彦氏が丹後震災を描いた油絵が掲げられていたりと、震災を後世に伝える記念塔として、象徴的な役割を担ったのが丹後震災記念館であった。
 

伊藤快彦震災画 倒壊家屋からの救援活動(ご提供画像)

令和9年には震災後100年を迎える。こうして今も残る震災の爪痕をみることや、経験、記憶を後世に継承していくことが、ますます重要になっていくのではないだろうか。