久美浜と豪商稲葉本家

2024.03.26

久美浜は丹後半島の西部に位置し、日本海から続く穏やかな久美浜湾を囲むように街がある。
中心市街地は中世の城下町をベースに、近世は幕府の直轄地として栄えた地域だ。街の中には久美谷川と栃谷川が久美浜湾に向かって流れていて、散策するだけで風情があってとても楽しい。
 


現在では国内外から移住してくる人たちも増え、個性的な飲食店や雑貨を販売する店などが、古い家屋をうまくリノベーションして営業する姿も見受けられる。
そもそも久美浜という場所は、古くから交通の要衝であり、海路でも陸路でもこの地は人が集まる場所だった。

久美浜が幕府の直轄地になったのは寛文6年(1666)6月のこと。年貢米の搬出港として、また商品経済の拠点、人口や交通の要衝としてこの地が重要視され、享保20年(1735)には久美浜に代官所が設置された。以降、明治維新(1868)までのおよそ130年間、久美浜代官所は丹後国の中心として機能してきた。
その後、明治元年(1868)に久美浜県庁が置かれて久美浜県が誕生すると、県内外から人が集まり、商売を始める人たちが引きも切らず、ますます街は活況を呈するようになる。


 


 こうした久美浜の発展に大きく寄与したのが、稲葉家だった。


久美浜を支えた稲葉家


久美浜の街で、ひときわ目を引く大きな建物が、国登録有形文化財である稲葉家の母屋をはじめとする建物群だ。
稲葉家は織田信長の家臣の1人、稲葉一鉄一族の末裔といわれ、初代喜兵衛が興した家と伝えられている。
宝暦6年(1756)には幕府の公金預かり所となるのだが、よほどの信用がなければそのようなお役目に就くことはできないことから考えても、稲葉家は名実ともに久美浜の名士として一目置かれた存在になっていたことがわかる。
こうして7代目の時に掛屋(今でいう銀行)業に家業を発展させ、京都一の豪商になっていくのである。


 


財を成す一方で、天明の大飢饉では但馬丹後に米や夫銀(労働の代わりにお金で収めること)を提供。また天保の大飢饉で美作国、丹後、但馬に多くの支援を提供したことで、苗字と帯刀を許されている。
特に12代目市郎右衛門は京都府下のさまざまな要職につきながら地域の発展にも尽くし、明治17年(1884)には地租780円(現在の価値で約1,700万円)を納める京都府で1番の高額納税者になった。


 


その財力を惜しみなく使って明治18年(1885)から5年かけて建てられたのが明治23年(1890)に竣工した現在の母屋である。
「豪商稲葉本家」の支配人、水原倚声さんの話によれば、当時、久美浜の街の経済は停滞し、生活困窮者が溢れていたという。そこで12代目市郎衛門は母屋を建てることで、仕事とお金を町の人々に還元しようと考える。5年間の施工期間に関わった人数はのべ18,391人にもなった。現在でいう公共事業と言っていいかもしれない。
母屋のシンボル的な空間である通り土間は、居間と一体的な吹き抜けになっている。立派な太さの松の木を梁にし、8メートルもある欅が大黒柱に据えられ、壁には明かり取りがあり、建屋の中に光が差し込む堂々たる姿は、強さと美しさを湛えている。
 


通り土間を抜け、奥座敷へ。目に飛び込んでくるのは久美浜に残る龍伝説をモチーフにした庭である。龍に見立てた松が清々しい。その庭に面した縁側には、12メートルもある1本の檜の丸げたが渡されている。この丸げたは左右で同じ径を確保するため、50メートルもの巨木の中でもまっすぐで均一な部分だけを使ったという贅沢なもの。
 


その先にある当主の書斎の間の天井を見上げれば、板目が見える希少な屋久杉の板が貼られている。
 


ユニークなのが6.5畳という部屋の広さである。実はこれ「商売繁盛」に畳の「半畳」を掛けて、わざわざ半畳分を設えているのだという。普段は人に見せない部屋に施された験担ぎに、当主のユーモアと商売への思いが込められていたということなのかもしれない。
 


ピカピカに磨き上げられた階段を上がって向かった2階には、12代目が13代目の為に造作した「新婚の間」がある。
 


天井は秋田杉、丸げたは1階よりも立派なものが使われているという。床柱には、「四方柾目」と言われる、年輪の芯を避け、材の四面とも柾目になるように切り出された最高級品が使われている。 
 


特筆すべきは畳の下に敷かれた床板である。当時としては画期的な工夫がされていて、床板を3段に張り、飛んだり跳ねたりしても音が下に漏れない防音仕様。新婚夫婦に気兼ねなく過ごして欲しいと願う、親心が込められていた。
他にも釘隠しがハート型に見える双葉葵になっているなど、親子愛、夫婦愛に溢れた部屋に、心ときめく人もいるのではないだろうか。


心ときめくといえば、江戸期に建てられたと伝えられる建物、吟松舎の庭にある夫婦樹も見逃せない。二本の種類の違う木が一緒に植えられており、縁結びのスポットとして人気があるという。
 


吟松舎の奥座敷では西園寺公望公が昼食をとったとか。現在はどなたでも、同じ場所で夫婦樹を見ながら稲葉家名物のぼた餅を食べることができる。
なぜ、ぼた餅なのか。
 

京丹後ナビより引用
(https://www.kyotango.gr.jp/shops/623/)
久美浜の発展を願い、力を尽くした12代目が晩年望んだのが、久美浜の街に鉄道を敷くというもの。願いは13代目に引き継がれ、多大な私財を注ぎ込み、昭和4年(1929)、久美浜・豊岡の間に鉄道を開通させる。開通の折には地域の人々がぼた餅をついてお祝いをしたという。
というのも、江戸時代の飢饉の時に稲葉家は米蔵を解放し、お粥やぼた餅を街の人に振舞って皆で飢えを凌いでいる。のちの明治元年に久美浜県ができた際には、稲葉家が記念のぼた餅を街の人に配った。これらの出来事を久美浜の人たちは忘れてはいなかったのだ。今までの恩返しとばかりに、人々はぼた餅をついて開通を祝ったのである。
稲葉家と久美浜の街の人をつないだぼた餅は、今では久美浜を訪れる多くの人たちと街をつなぐ、大切な名物になっている。
久美浜、そして稲葉本家を訪れた際には贅を尽くした建物を見学し、ご家族や友人たちと夫婦樹を見ながら、美味しい名物ぼた餅を食べてみてはいかがだろうか。