絶景!日本海を眺める巨大前方後円墳
京丹後市には、日本海側最大の前方後円墳である網野銚子山古墳と、ついで大きい神明山古墳がある。その2つの古墳の頂きからは日本海を眺めることができる。
「え?古墳から日本海が見えるってどういうこと?」
と、普段、古墳に馴染みがない人は思うかもしれないが、海が見える場所に造られた古墳は各地に存在していて、網野銚子山古墳や神明山古墳もその一つである。
一体、なぜそんな場所に巨大な前方後円墳が造られたのか。
その謎を探るべく、2つの巨大前方後円墳を巡ることにした。
圧巻の網野銚子山古墳
京丹後鉄道網野駅から車で5分ほど。住宅地を抜け、その先の小高い台地の上に網野銚子山古墳はある。ここからいったいどんな風に海が見えるのだろうかと、車を止めてワクワクしながら古墳へと歩み寄る。
まずは横からの古墳の姿を眺める。網野銚子山古墳は福田川河口付近の標高およそ20メートルの地に4世紀末に築造された、全長201メートルの巨大前方後円墳である。古墳の前に立つと、あまりの大きさに驚いてしまう。
墳丘は三段築成になっていて、斜面を仕切るテラスと呼ばれる平坦部分もしっかりとした幅があり、立派な造りをしている。
その墳丘の横にある階段を登って墳頂に向かう。思った以上に高さがあった。
頂きからは、ぐるっと周囲を見渡せるようになっていて、風が吹き抜けて気持ちのいい場所だ。
そのまま墳丘の縁に立つと、視線の先に日本海を捉えることができた。
こういうことか!
今では古墳から海までの間に距離があり、一帯には田んぼや民家が広がっているが、築造された当時、眼下に広がる市街地は実は潟湖だったことが調査によってわかっている。潟湖とは海の一部が外海と隔てられてできた湖沼であり、穏やかな港が古墳のすぐ近くにあった可能性がある。
そんな場所に、網野銚子山古墳は造られたのだ。
もう少し詳しくみていこう。
網野銚子山古墳は現在は土山に見えるが、もともと丘の全面は葺石で覆われていた。葺石とは古墳の表面を装飾する石であり、斜面の土砂が流れないように土留めの役割も兼ねている。後円部の墳丘斜面の裾には礎になる大きめの基底石が敷かれていたこともわかっている。石は福田川河口付近の海岸から運ばれたものと考えられており、墳丘全面に敷かれていたとなると、相当な数が必要であり、運んで敷き並べる労働力を確保するのも相当なものであっただろう。
そのほか、網野銚子山古墳からは「弓と矢」「龍」が線刻された埴輪も見つかっている。
また墳頂やテラスには、頭の部分がドーム状に盛り上がった「丹後型円筒埴輪」と言われるこの地域独特の埴輪が、約25センチ間隔で並べられていた。その埴輪列から推定される総数は約2000本。丹後型円筒埴輪は古墳時代前期から中期初頭の丹後半島各地を治めていた首長クラスの古墳からしか見つかっていない、特別な埴輪である。それが墳丘上に約2000本ずらっと並べられた姿は、さぞかし壮観であったことだろう。
この様子からも、壮麗で巨大な前方後円墳を築造することができるほど力を持った首長が、当地にいたと考えられるのだ。
首長の力の大きさに関連する事柄として、網野銚子山古墳は、畿内の巨大古墳、奈良市にある佐紀陵山古墳と相似形で築造されているという見方がある。佐紀陵山古墳には京丹後市にゆかりがあり、垂仁天皇の后でもある日葉酢姫(ヒバスヒメ)が埋葬されているとされ、両者の間には密接な繋がりがあった可能性があるという。
これは何を物語っているのだろうか。
シンボリックな立岩を見下ろす神明山古墳
次に、網野銚子山古墳についで大きな前方後円墳である神明山古墳に行くことにした。
神明山古墳は竹野川河口の日本海を望む高台に造られた古墳で、5世紀に築造された全長およそ190メートル、標高26メートルの巨大古墳である。
古墳は網野銚子山同様、三段築成で、テラスには丹後型円筒埴輪が並べられていたという。
また調査によって「舟をこぐ人物」が線刻画(線を刻んで描いた絵)で施された埴輪も見つかっている。
実際に登ってみることにした。
神明山古墳は竹野神社の傍にあり、そこから緩やかな小道を登って古墳の頂に立つことができる。墳頂に立つと視界はバーンと広がり、美しい日本海が飛び込んできた。
気持ちいい!なんて爽快な景色なのか。
網野銚子山古墳よりも海との距離が近く感じられた。日本海はどこまでも青く、竹野川河口の先には立岩が見える。立岩とは高さ20メートルにもなる巨大な一枚岩で、地域のシンボルとして古代より大切にされている岩である。その岩を見下ろすように造られた神明山古墳は、当時の人にとって、より特別なものだったのではないだろうか。
ここも築造された当時は、眼下に潟湖が広がっていたという。
丹後王国の象徴としての巨大前方後円墳
話は弥生時代に遡る。
ここ丹後地域の弥生時代の遺跡からは、大陸からもたらされた豪華な装飾品や、当時、大陸との窓口であった北部九州についで多くの鉄製品が見つかっている。
それらは潟湖に作られた港を経由し、各地域にもたらされたようだ。穏やかな潟湖に作られた港は、日本海への出入りが容易であり、多くの人々が行き交うかっこうの港になったことだろう。
つまり潟湖を出入り口に、弥生時代の丹後地域には貴重な品を入手できる日本海交易ルートがすでに存在し、また、それだけのことができる力のある首長がいたと考えられている。
その流れに続く古墳時代にも強大な力を持つ首長が存在し、日本海側最大の前方後円墳が築造されたのである。
前方後円墳は、ヤマト王権と密接な関係が考えられる被葬者の墓に多いとされる。とするならば、これほどまでに大きな前方後円墳を造ることができたのは、ヤマト王権にとっても当地が重要な地だったからではないだろうか。また、ヤマト王権は日本海から丹後地方を経由して大陸のものを入手できるよう、当地と連携していたのかもなどと想像できるのである。
両者の関係の強さは、網野銚子山古墳が、佐紀陵山古墳と相似形で造られていると推測されることからもうかがい知ることができるのではないだろうか。
だから、潟湖に入港してくる国内外の船に対して、力と技術を見せつけるために、海上から見える場所にわざわざ巨大な古墳を造ったとも考えられる。
きっと、入港してくる人たちは、丘陵上に光り輝く巨大な前方後円墳をみて驚き、この地の力を実感したのではないだろうか。
こうしたことから、弥生時代後半から古墳時代前期後半にかけて「丹後王国」と言われるような強大な力を持った勢力が、この地にいたと考えられている。
その象徴が、日本海を眺める場所に造られた2つの巨大前方後円墳、網野銚子山古墳と神明山古墳なのかもしれない。
機会があれば、2つの古墳の頂きから日本海を眺めてみては、いかがだろう。日本海の美しさとともに、そこを舞台に意気揚々と活躍した丹後王国の人々を感じることができるかもしれない。