縁城寺~積み重なる歴史と想い~

2024.03.26

京丹後市には、空海に影響を与えた人物、善無畏三蔵が開いたと言われる歴史あるお寺、縁城寺がある。
「橋木の観音さん」として地域の人々に親しまれている縁城寺は、かつて天皇家や権力者と関わりを持ちながら、隆盛を誇った大寺院だったという。


山門をくぐり抜け、しばらく車でまっすぐに参道を走った先に、本堂へと続く階段が現れた。こんなに山門から距離があるのかと、まずは敷地の広さに驚いてしまう。
里山の中に静かに佇む縁城寺は、真言宗のお寺であり、丹後地方の真言宗寺院の中でも屈指の規模と由緒をもつ。なんでも高野山よりも99年早い養老元年(717)に、インドの高僧であった善無畏三蔵が開基したと言われている。

『縁城寺縁起』によると、子供の姿をした梵天・帝釈天が善無畏三蔵の夢に現れ、「観音様の霊地がある」と告げて、授かった観音像を安置したのが始まりだという。
善無畏三蔵は、東インドのオリッサ国の王子とも中インドの王子とも言われ、いずれにしてもインドの王族の血を引いた人物である。王位を捨て出家し80歳で中国の都長安に入り、朝廷の信頼を得て『大日経』など、密教の重要な経典の翻訳や密教の布教に努めたという。
善無畏三蔵は真言宗の八祖の1人とされ、空海は彼が翻訳し、奈良の久米寺東塔に納めた『大日経』を目にしていたと考えられている。また、空海は彼の著した『天衣記』を求めて縁城寺を訪れたとも伝わっており、空海に影響を与えた人物と言われている。
そんな人が、なぜ丹後の山に寺を開くことにしたのだろうか。
住職の今村隆惠さんの話によれば、空海はじめ修行僧たちは鉱物や地下資源の豊かなところに行場をひらくという知識を持ち合わせていたことが考えられるという。それに照らし合わせると、鉱物資源が豊かだった丹後地方の特色と、大陸との交易が盛んだという土地柄が、善無畏三蔵の目に留まったのではないかという。


縁城寺には、天皇にまつわる話がいくつも残されてる。『縁城寺縁起』には、ある猟師が山中で何やら光るものを射った。翌日、現場に行ってみると、観音像が血を流しており、これを機に出家したのが成覚上人であると記されている。縁城寺は、この逸話を聞きつけた光仁天皇の帰依を受け、勅願寺となった。また、平安京と縁城寺の立地が似ていることから、桓武天皇より「縁城寺」の寺号を賜っている。以降、盛衰はありながらも天皇ら権力者の支援を受けながら、地域の真言宗寺院の中核を担ってきたのである。
一条天皇によって堂塔が整備され、隆盛し、室町時代後期には8ヶ院と25坊もある大寺院となっている。坊舎が立ち並ぶ様子は壮観だっただろう。しかしながらその後、3度の火災によって広大な敷地にあった塔頭や坊も焼失したという。山門からまっすぐに伸びる道は大寺院の面影なのかもしれない。

多くの困難を乗り越えてきた現在の本堂を拝見することにした。


本堂の入り口に置かれた朱が残る立派な仁王像は京都清水寺仁王像の模刻で、京都の仏師、鎌田喜内師の作である。
 


その前にある灯篭には菊の御紋が入り、天皇家との繋がりを見ることが出来る。なお、本堂に入る手前の壁や戸の内側には、過去に参拝した人々による願い事が様々に書き付けられている。その中には戦地へ赴く人の無事を祈る戦時中の書き付けもあり、まさに人々の祈りの記憶だ。


それらを見ながら本堂の中へ。堂内に残るお香の香りに心が安らぐ。
善無畏三蔵が安置したとされる本尊、木造千手観音菩薩立像は秘仏とされ、平時にお姿を拝むことは出来ない。そのため大壇の向こうにある厨子には身代わりとしてお前立ちと言われる、本尊をしのぶ仏像が安置されていた。
その前に座ると、たおやかで温かなお姿が目に映る。
厨子の中から現れるお姿は、見る者の心を包み込む慈愛に満ちたもので、お祈りするとありがたい気持ちが胸に広がる。
その他、堂内には善無畏三蔵の木造が安置され、また通常1つの壇が3つも置かれ、左右は護摩壇である。これは高野山の金剛峯寺と同じ数で、真言宗寺院の中でも灌頂儀式が執行できる等、格が高いことを物語っていると今村さんが教えてくださった。
 


本堂を後にして境内に目を向けると、本堂前には正平6年(1351)の造立と推定され国の重要文化財に指定されている宝篋印塔があり、境内には七仏薬師の一つである願興寺から移築された多宝塔も残されている。七仏薬師とは、この地域に伝わっている伝説で、聖徳太子の異母弟と伝わる麻呂子親王が悪行を為す 3 匹の鬼を退治した際、薬師如来に大願成就を願い、征伐に成功した後にはその返礼として薬師如来の7つの寺を勧請した、というもの。

このように、縁城寺には長い歴史を伝える様々な文化財が残されており、非常に見どころが多い。また、今村さんがおだやかに語ってくれたのはハスの話。本堂下につくられた池のハスは檀家さんが大切に育てているものとのこと。「橋木の観音さん」と親しまれている古刹は、確かに今も愛されている。


今回、縁城寺を訪れて感じたのは、古刹の名にしおう歴史や文化財があるのはさることながら、多くの人に求められてきたお寺なのだという事だ。

古くは空海に請われ、天皇をはじめとする時の権力者の帰依を受け、多くの人々の尊崇を集め、今日でもなお慕われている。

お寺に伝わる縁起、仏像、荘厳、仏閣、壁の書き付け、参道の草木に至るその全てに、時代を超えて積み重なった人々の想いを感じた。

お寺全体を包み込む柔らかで温かい空気。

もしかすると、善無畏三蔵がこの地を選んだのは、そんな場所だったからかも知れないし、ハスのお話を嬉しそうにしてくださった今村さんのお人柄もきっと、この場所に育まれたからに他ならない。
そんな風に私は思った。

縁城寺は、今日も静かに優しく歴史と想いが積み重なっている。