松本重太郎(1844~1913)は「西の松本、東の渋沢(栄一)」と並び称されることもある日本の近代化の礎を築いた明治の実業家。
松本重太郎(幼名松岡亀蔵)は弘化元年(1844)10月5日間人村古間の庄屋松岡亀右衛門、みよの次男として生まれ、生家となりの龍雲寺の寺子屋にて大河内弘人に師事し、10歳で京都の呉服商に丁稚奉公のため故郷を離れた。
その後大阪の大店「綿屋利八」で商才を発揮し、27歳で洋反物雑貨の輸入商社「丹重」を創業。この事業で成功をおさめ、以後の事業の礎とした。
その後、大阪紡績会社、日本火災保険会社、大阪毎日新聞社、山陽電鉄、南海電鉄など、40社あまりの会社の創立や経営に関わった。
松本重太郎生家跡は、幼き日に重太郎が学んだ場所であり、彼の家の隣地、菩提寺でもある龍雲寺の門前にある。