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竹野川の河口近く、史跡神明山古墳の傍らに鎮座し、「延喜式」神名帳に記される竹野郡竹野神社に比定される。
通称「斎宮(いつきのみや)」という。社殿は享禄元年(1528)の火災で焼けたあと仮普請のままであったが、文政十三年(1830)に再建された。
本殿(府登録 有形文化財)は規模の大きな一間社流造で、身舎正面には双折れ桟唐戸をたて、側面は二間につくる。総体に装飾が抑制された簡素な建物で、妻飾りも台輪上に三斗(みつど)をおいて妻をうけ、その上に豕叉首を組む。
末社斎宮神社本殿(府登録 有形文化財)は、本殿とは対照的な小振りな一間社流造であるが賑やかな装飾をもつ。中門(府登録 有形文化財)は神社の門としては珍らしい向唐門で、左右に桟敷舎と神輿庫を付属する。
これらの建物は、間人(たいざ)村や当村の大工により建立された。
紙本著色斎宮大明神縁起(府登録 有形文化財/市指定 有形文化財)は、竹野神社が所蔵する紙本著色巻子装の絵巻。清園寺縁起、等楽寺縁起などとともに麻呂子親王説話を絵画化した作品である。画風は、室町後期以来のお伽草子に通じるものであり、山容描写にみられる墨色の重々しい表現には、室町時代の水墨画を思わせるところがある。しかし大ぶりに描かれる人物表現には、近世的な趣が強く、制作時期は江戸時代に入っているものと思われる。縦30.4センチメートル・横931.4センチメートル
紙本著色等楽寺縁起(府登録 有形文化財/市指定 有形文化財)は、『紙本著色斎宮大明神縁起』と同じく竹野神社に伝わる麻呂子親王伝説を絵画化した紙本著色巻子装の縁起絵巻で、独立した詞書(ことばがき)はなく、連続して展開する絵のみで構成され、適宜画面の所々に説明の文章を書込む。この縁起絵は、麻呂子親王による丹後の鬼賊退治、七仏薬師分置という寺の創建の物語を描く。
前半を欠失するため、原題を知り得ないが、画中文字に、「当寺の本尊は第五番に作りたてまつらせ給ひけり」とあること、また、巻末に寛印供奉(かんいんぐぶ)による再興を伝えていることから、近世の地誌類が一致して七仏薬師の第五番として挙げ、かつ、寛印供奉の再興を伝えている弥栄町等楽寺の縁起とみてまちがいないものと思われる。制作年代は、大和絵の伝統的な描法のなかに漢画の影響も見られるところなどから16世紀と考えられている。縦32.0センチメートル、横516.0センチメートル
境内地は、竹野神社文化財環境保全地区として、府決定文化財環境保全地区となっている。
竹野神社の秋祭りの祭礼(十月第二日曜日)に行われる民俗芸能であるテンキテンキは、府登録無形民俗文化財に登録されている。(現在休止中)
テンキテンキの名は、踊子たちが唱える掛け声に基づくもので、本来は踊子の名で伝えられたものと考えられる。この芸能は、竹野集落の子供組によって伝承されており、太鼓持ち一人、太鼓打ち一人、ササラ四人の構成で演じられる。
きわめて単純素朴なものだが、黒部、舟木の踊子と同じ流れに立つ中世的な囃子物の伝承であり、風流踊の古態を示すものとして資料的価値が高い。